日本の貿易の99%以上を担う海運業。その最前線である船の上で、今、何が起きているかご存じでしょうか。実は、日本の海運会社が運航する船に乗る船員のほとんどが外国人です。これは、人手不足に悩む他業界から見れば、まさに異次元とも言える光景かもしれません。
これは決して最近始まったことではなく、海運業界が数十年かけて築き上げてきた、極めて高度なグローバル人事戦略の結果です。なぜ海運業界ではこれほど外国人の活用が進んだのか? 具体的にどうやって採用し、育成しているのか? そして、その経験から他の業界は何を学べるのか? その実態と仕組みを解き明かします。
驚くべき実態 – 日本の船を動かす船員の98%が外国人
まず、衝撃的なデータからご紹介します。日本の海運会社が運航する外航船(国際航路を走る船)において、実際に船を動かしている船員のうち、外国人が占める割合は、実に98%にものぼります。
日本商船隊の外国人船員比率
約98%
日本の海運会社が運航する外航船約2,200隻のうち、日本人船員は約2,200人。対して外国人船員は約72,000人。私たちの生活や経済は、彼らなしでは成り立たないのが現実です。
(データは国土交通省海事局の近年の発表に基づく)
もちろん、国内の港を行き来する内航船は主に日本人船員によって運航されています。しかし、私たちの暮らしに欠かせない原油や鉄鉱石、食料品、自動車などを世界中から運び、また輸出しているのは外航船です。その現場は、フィリピン人をはじめ、インド人、インドネシア人、中国人など多国籍の船員たちが担っているのです。
なぜそうなった? – 競争力維持のための必然の選択
なぜ、ここまで外国人船員の活用が進んだのでしょうか。それは、1980年代に遡る経済構造の変化が大きなきっかけでした。
- 円高の急進とコスト競争の激化
1985年のプラザ合意以降、急激な円高が進行。当時、日本人船員の給与は世界的に見ても高水準でしたが、円高によってその人件費はさらに高騰し、国際的な価格競争力を完全に失いました。海外の海運会社は、より安価な労働力で運航コストを抑えており、日本の海運会社は存続の危機に立たされました。 - 「マルシップ」と「便宜置籍船」の活用
この危機を乗り越えるため、日本の海運会社は「マルシップ」と呼ばれる方式を導入。これは、船の所有は日本の会社が行い、船籍をパナマやリベリアなど税金が安く、外国人船員を雇用しやすい国に置く(これを便宜置籍船と呼びます)というものです。これにより、国際的な競争力を持ったコストで、外国人船員を合法的に雇用する道が拓かれました。 - 単なる「コスト削減」から「戦略的パートナー」へ
当初はコスト削減が主な目的でしたが、長年の協業を通じて、海運会社は外国人船員を単なる労働力ではなく、共に事業を支える重要なパートナーとして認識するようになりました。優秀な人材を安定的に確保するため、採用・教育システムへの戦略的な投資を積極的に行うようになったのです。
海運業界はどうやって採用しているのか? その確立されたルート
では、具体的にどのようにして7万人以上もの外国人船員を確保し、管理しているのでしょうか。そこには、長年の経験で培われた、極めてシステマティックな採用ルートが存在します。
ルート1 – 現地の「配乗会社(マニング・エージェンシー)」との連携
最も一般的なのが、フィリピンなどの船員供給国にある「配乗会社」とパートナーシップを組む方法です。配乗会社は、船員の募集、選考、訓練、各種手続き、そして実際に船に送り込むまでの全てを代行する専門機関です。海運会社は、信頼できる配乗会社を厳選し、長期的な関係を築くことで、自社の基準に合った質の高い船員を安定的に確保しています。
ルート2 – 「現地法人・自社養成」による直接採用・育成
大手海運会社の中には、さらに一歩踏み込み、フィリピンなどに自社の現地法人や、船員を養成するための商船学校を設立しているケースも少なくありません。自社で学校を運営することで、採用の初期段階から日本の企業文化や安全基準を叩き込み、ロイヤリティの高い、まさに「自社の船員」を育成することが可能です。これは、人材への究極の先行投資と言えるでしょう。
ルート3 – 日本人船員との「混乗(ミックスクルー)」体制
多くの船では、船長や機関長といった最高責任者のポジションは経験豊富な日本人船員が務め、他のクルーは外国人船員で構成する「混乗」体制がとられています。これにより、日本の高い運航技術や安全文化を確実に継承しつつ、現場のマネジメントを行っています。船内での公用語は基本的に英語であり、異文化コミュニケーションが日常的に行われています。
他業界が学ぶべきこと – 海運業のグローバル採用が示す4つの教訓
この海運業界の事例は、人手不足に悩む日本の多くの業界にとって、貴重な示唆に富んでいます。外国人労働者を「短期的な助っ人」と捉えるのではなく、事業の根幹を担う「戦略的パートナー」として迎え入れるために、以下の4つの視点が重要です。
- 1.「助っ人」発想からの脱却
海運業界は、外国人を「安い労働力」や「一時的な人手不足の穴埋め」とは考えていません。彼らを事業継続に不可欠な基幹人材と位置づけ、長期的な視点で投資しています。この根本的な意識改革が、成功の第一歩です。 - 2. 採用と教育の「仕組み化」
行き当たりばったりの採用ではなく、信頼できる現地のパートナー(エージェント)を開拓したり、自社で教育プログラムを構築したりと、安定的に人材を確保・育成する「仕組み」を作り上げています。再現性のない採用活動では、組織は成長しません。 - 3. 明確なキャリアパスの提示
外国人船員も、経験を積めば甲板長や一等航海士など、上位の職位に昇進できます。給与も当然アップします。国籍に関わらず、努力と能力が報われる公平なキャリアパスがあるからこそ、優秀な人材が定着し、モチベーションを高く保てるのです。 - 4. マネジメント層の「グローバル化」
多国籍のチームを率いるには、日本人側のマネジメント能力も問われます。英語でのコミュニケーション能力はもちろん、文化的な背景の違いを理解し、尊重する姿勢が不可欠です。外国人材に日本文化への適応のみを求めるのではなく、会社全体がグローバルスタンダードに適応する必要があります。
結論として、海運業界が私たちに示すのは、厳しい国際競争の波に洗われて必然的にたどり着いた、「真のグローバル人事」の姿です。人口減少が加速する日本において、その門戸を国内だけに閉ざしている産業に未来はありません。海運業界の先進的な取り組みは、あらゆる業界にとって、これからの時代を生き抜くための重要な羅針盤となるはずです。